〖腰痛〗で感じた「期待すること」のむなしさと、「期待しないこと」から得た感謝・感動
腰が痛い。
うつ伏せになって眠れないほど。
ゆっくりなら動けるが、できれば重いものは持ちたくない。
そんなとき、
つい他人に期待してしまう。
『私がこんな状態なんだから、手伝ってほしい。きっと手伝ってくれる。』
そう考えてしまうとあとは落胆しかない。
他人は期待通りには動かない。
だって他人だから。
夫婦関係も同様。
配偶者は他人。
妻に期待するだけ無駄。
「期待」という言葉の、なんと使い道のないこと。
〖他人に期待しないことを自分には期待している〗
とでも言うためか。
しかし逆に、
期待していない分、感謝は大きいこともある。
不登校の10歳の息子が積極的にお手伝いをしてくれたのだ。
これには感謝、感激、感動の嵐。
普段は一切ついてこない買い物にも一緒に来てくれて、
重い荷物を持ってくれて、
学校への付き添いで持っていくリュックも持ってくれて、
何から何までしてくれて、本当に助かったよ。
ありがとう。
良い息子に育ったものだ。
これは誰の影響でもなく、本来の息子の優しさが表面化したに過ぎないのだと思っている。
もともと優しいんだよ、すごく。
学校という集団に馴染めないのではなく、
集団の中にいると優しさで救えないことが多すぎて辛いんだと思う。
周囲にアンテナを張り、気付きが人一倍多いぶん、そのショックや衝撃、反動も大きい。
何も気付けない人は何も感じないからね。
そのずば抜けた観察力と感性が学校という集団にそぐわないんだろうな。
無理していくこともない。
行きたいと思えたら行けばいいし、
行くことが正解でもないと思う。
だから私は収入ゼロでも専業主夫になり、
子どもに寄り添う父親でありたいと願ったのだ。
子どもの希望に沿ってあげられる時間をお金で買ったのだ。
4年間の専業主夫生活の末、今ではとても良い選択だったと思える。
腰が痛いのは辛いが、
・息子の優しさと行動力を目の当たりにできたこと
・妻の薄情さと自分主体なところがあらわになったこと
(もしかしたら気付けないだけなんだとも思う)
(私と同じ「気付き」を妻に求めるのがそもそも酷なんだろう)
(だからこその感謝ジャーナルか。)
さて、感謝ジャーナルを書こう。